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2005年 07月 16日
ピアニシモ。
悲しげな三連符の、綿綿と奏でられるのを。 嬰ハ短調のその調べを。 むらさき色の夕べ、初めて耳にした。いつものようにリビングから首都高速を見下ろしながら、部屋で酒を飲んでいた。僕にしてはめずらしく、しかもかなり早い時間から酔っ払っていて──その日は、僕の書いた小説を編集者に散々けなされて、挙げ句に連載の話がボツになったので、酒がとても不味かったが、無理にでも飲まないと気が済まなかった──、空がダークブルーでないのも、朦朧とした意識のせいだと思っていた。 怪しい足取りでオーディオ・セットに近づき、アンプに手を伸ばした。ビル・エヴァンス・トリオの枯葉でも聴こうと思って、LPレコードを探していると、すでにスイッチが入ったFMラジオから、ゆったりとした三連符が、天井のボウズ・スピーカーと僕の耳を通り抜けて、いきなり脳髄に滲みこんできたのである。 僕はアルバムラックの前にしゃがみこんだままのおかしな格好で、動きが止まってしまった。 悲しかった。ただ悲しかった。涙があふれてくる。 僕は立ち上がって、今度はしっかりとした足取りで、窓際へ歩いた。血液を、その中にいっぱいに満たしたような赤い月が、東の空にあった。その赤い心臓から血がにじむように、光が溶け出して、空をむらさき色に染めていた。 真円まであと数日のその歪みが、現在の僕の心と同じだ、そう感じた。何かが足りない。でもその必要な何かがいったいどこにあり、どうすれば僕を満たしてくれるのか、この赤い月と同じように、時間の流れによって、それはやがて訪れるものなのか、僕には知る由もなかった。 ラジオは三連符をやめていた。「──今日は、去る八月二十九日にSホールで行われました、ピアニスト秋村香澄さんのリサイタルから、ベートーヴェンのソナタ第十四番嬰ハ短調『月光』の第一楽章、アダージオ・ソステヌートをお届けいたしました」 僕はまだ少し酔っていたが、冷蔵庫からトニック・ウォーターの小壜を取り出し、そのまま一気に飲み干すと、部屋を飛び出した。悲しさで満たすしかない空虚な僕の心を、たとえ一時的にでも癒してくれるのは、彼しかいない。僕はエレベーターも待ちきれず、十一階から非常階段で地下まで一気に走り下りた。待ってでもエレベーターのほうが早いに決まっているのだが、じっとしていられなかった。 親友は、コンクリートの冷たい床で静かに待っていた。僕はバケット・シートに身をうずめて、深呼吸をひとつしてから、キーを差し入れた。二・七リットルのフラット・シックスが低いうなり声を上げる。三十年あまりも前に生まれたとは思えないほど元気な彼の、純白の身体の横腹には朱色の帯に“Carrera”の文字が抜かれている。ドライビング・グラブをはめて、シュロスの五点式シートベルトをロックする。 「悪いけど、少しつきあってくれないか」ステアリング・ホイールを二、三度叩きながら彼に話しかけ、アクセルを軽く煽った。親友の鼓動が、七千回転くらいまで一気に吹け上がってすとんと静かになると、アフター・ファイアーで「OK」と返事をする。 ゆるやかなスロープを上って、僕と親友はむらさき色の空気の中へと進んだ。歪んだ心臓はさっきよりも少しだけ高いところから、僕たちを見下ろしていた。 耳の奥では嬰ハ短調の三連符が、やり場のない悲しみをゆっくりと、しかし確実に僕の心へ積み重ねながら、奏でられていた。親友は別に虚しさを癒してくれようとはしなかった。それでも根気よく、徐々に悲しみで満たされつつある僕の心の呻きを聞いていた。無条件に共感してくれる友がそこにいる、それだけでも少し、救われた気がした。 --------------------------------------------- 『月光』
by Lemon_Kuno
| 2005-07-16 03:37
| ■[fragments of prose]
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